夏目音劇2018「悪戯な雨」感想

音劇、すごい良かったですね……

1月6日に行われた音劇の感想をなぜ今更、という感もありますが。単に忙しかったのと、文章をまとめる気力がなかったのとで、こんな時期になってしまいました。

でも書かない出さないよりはましだろうと、整わない文章のままここに出すことにします。

この感想はただの個人的な感想であり多分に妄想を含むので、気楽にお目通しいただけたらと思います。

 

 

 

 

 

 

・悪戯な雨とふたりの日常
まず、タオルの妖とソウゴさんの日常です。原作では点描で描かれていた部分を広げていましたが、二人の日常を目の当たりにして、少なからず驚きました。ああやってタオルの妖の日常は過ぎていったんだなと。

はしゃいで見せる日もあれば、隣でいとおしげに話しかけてみたり、特にソウゴさんには聞こえない「いってらっしゃい」がいじらしくてそこだけで泣きそうでした。あれだけ話しかけてはしゃいで見せても、ソウゴさんには見えないし聞こえない、けれど雨の日にソウゴさんに会いに来るのをやめないタオルの妖が切ないです。

そういった日々を、一方通行に過ぎなかった日々を、タオルの妖は50年も続けてきたんだと気付いたときは、胸が苦しくなりました。50年という月日の重さがずしりと改めて迫ってきて、切なさでどうにかなりそうでした。

この月日の重さは、原作とアニメを見ていたときは気づけなかったことです。自分の読解力の無さを呪います。50年という月日の重さが、タオルへの思い入れ、ソウゴさんへの想いにつながるわけですね……。

 

 

・夏目のやさしさ
「会いたいなら探してみよう」この台詞、原作だとわりとさらりと読んでしまっていた部分ですが、この言葉を生で聴いてまた泣きそうになりました。ほぼ泣いてました。

夏目くんの言い方がほんとに優しいんですよ。「会いたいなら探してみよう」、という言葉が、押し掛け同然で夏目のところに来たタオルの妖にとって、どれほど優しく響いただろうかと思うと……。その後の「失くしたことを知ることもきっと大切」という台詞もいいですね。ただ優しいことを言うだけじゃなく、どうにもならないこともあるんだよということを夏目が告げていて、とても好きな台詞です。

ウソつき呼ばわりされてもまだお孫さんと話そうとする夏目に、タオルの妖が「もういいんです」って泣いてるところ、好きです……タオルの妖がいい子すぎてこちらが泣いてしまいますね……ほんとにいいこで……

 

 

・夏目の関わり方
病室での「雨の日、女の子が」「覚えてないですか」と、少し必死になってソウゴさんにせまる夏目くんが、とても良かったです。アニメ、原作は「きっとソウゴさんは覚えていないだろうな」という、諦めをにじませた少しもの悲しい口調だったのですが、音劇ではとても必死そうに、懸命に「思い出してくれないだろうか」と願っているようでした。この病室での一幕、音劇ならではの解釈がよく表れていて、切ないけれどとても好きなシーンです。

話は少しずれますが、「悪戯な雨」では夏目くんがタオルの妖とソウゴさんの件に関して、前のめりに関わっていったように思えます。例えば、お孫さんに夢中で話しかける、街に出向いてソウゴさんを探し回る、(後述しますが)ソウゴさんに何かの証を求める、などなど、夏目くんはタオルの妖に求められる以上に自発的に、そして自分の意志で動いているように見えます。ソウゴさんと妖をつなぐために、夏目くんは何度も走っています。

そのひたむきな姿勢が病室での台詞の神谷さんの演技に反映されていて、聞き入りました。涙腺も緩みました。タオルの妖の50年分の日常も描写されたことによって、夏目の必死さへの説得力が増しているとも感じました。日常を描写したことによって感情移入がしやすかった、といいますか、こちらも夏目と一緒に妖に情を寄せているようなそんな感覚がしました。

夏目がこの一件に前のめりに関わる理由って何だろう?と考えてみました。

仮説ですが、「人と妖のかかわりを、自分が結んであげられないか」と、夏目が考え始めたから、ではないでしょうか。燕や蛍などの、一緒にはいられずに去っていった妖たちを見て、「何とかできないか」という気持ちが夏目の中で育っていったのかもしれません。

「いつかくる日」のエピソードでは、夏目は「人に惹かれる妖をいっぱい見てきたけど……みんな去っていったよ先生」と寂しそうにこぼしています。夏目はそういった妖に出会うたび、人と妖とが「うまくいくといいな」と願っているように見えます。
そして、藤原家や友達や人と関わる中で、「優しさを返していけたら」と考えるようになった夏目は、妖や人に対して自分も何かできるのではないかと、今回積極的に関わっていったのではないでしょうか?

つまりは、夏目は自分が人と妖の間を繋げないかと、行動を自分から起こしているのではないか、ということです。もっと自分が何かできていれば、という後悔を残さないためにも。

 

 

・ソウゴさんのタオル
前のめりに関わって、二人をつなごうとした夏目ですが、病室ではそれに失敗してしまって……本当にがっくりきただろうと思います。タオルの妖がソウゴさんにゆっくり話しかけているところで、私はすっごい泣いてました……日常エピソードが追加されて、より一層映えた美しいシーンでした。タオルの妖はずっとあんな風にソウゴさんに話しかけてきて、これがその50年の最後だと思うと切なくてせつなくて……

病院の帰り道、夏目と先生は何を考えていたんですかね。夏目はとてもがっくり来てると思います。

でも夏目は、まだ「自分にできることはないか」って一生懸命考えたんでしょうね……。改めて病院に行く決意をするまでに、かなりの葛藤があったのではないかと思います。

葛藤の末、「もう一度病室に行ってみよう」と夏目が言い出したときの、先生の目だけのコマが見えます。なんでもないです。

人と妖の声が等しく聞こえるのは自分だけなのだから、と必死になって考えたと思います。そして考え付いた結果が、「証」ではないでしょうか。一緒にはいられないかもしれないけれど、何か形に残るものがあれば、タオルの妖の救いに、そして二人が一度関わりを持ったという確かな証になるのではないかと、そう思ったのかもしれませんね。

そして病室にソウゴさんを訪ねると、おろしていないタオルを「親切なおばさまに」と預かります。バス停にそれを届けに(ここに妖がまだいる、というのも一考の価値あり案件ですが、それはまた別の機会に)行きます。このタオル、夏目はもちろん、タオルの妖もほんっっっとうに嬉しかったと思います。

そのタオルは妖にとってソウゴさんとの思い出で、ソウゴさんと一度でも触れ合った証で、ソウゴさんが「貸した」ではなく自分に「くれた」ものですもんね……。それだけじゃなく、夏目の優しさも詰まったタオルです。夏目がいなければ、このタオルは妖に届けられることもありませんでした。

タオルはずっと借りていたもので、それを妖はずっと返せませんでした。会いに行く理由がなくなってしまうのも、いやだったのでしょう。タオルはずっと、「ソウゴさんの優しさ」の象徴でもあったわけです。妖がタオルに感じていたのは他ならぬソウゴさんのやさしさであり、展開すれば通りすがりの雨に濡れた子供を拭いてあげる無償の優しさ、人のあたたかさです。

そのタオルを返して、そしてまた、新しいきれいなタオルをもらいました。

遠い記憶の中にはあるけれど、忘れていた「名前もなにも知らないある人」のためにタオルをあげたソウゴさんは、本当に優しい人だと思います。50年もタオルのことを覚えていた「おばさま」の気持ちを慮って、他でもないタオルをあげたわけですよね。

このタオルは、ソウゴさんからしたら「名前の知らない親切なおばさま」へのプレゼントであるけれど、それは確かに名前も知らないタオルの妖へのプレゼントであって、二人の間に繋がりができた証じゃあないかと思いました。そのタオルを届けたのは夏目で、このとき、夏目は人と妖をつなげることに成功したんだなあ……と、そんなことをまとまらない頭で考えていました。

 

 

・見守る先生

夏目君が前のめりに妖と関わる中、先生の姿勢が少しばかり気になりました。先生は「疲れた」等茶々を入れはするものの、夏目を強いて止めずにずっと付いていきます。普段はすぐやめておけと止めるのに。

先生の見守りの姿勢が現れまくっていますね。そういうところ好きです……いやそうではなくて。夏目がこういうことに関わるのを良く思わない先生が、夏目を強いて止めないことがちょっと気になってしまって……。

先生は人というものがどういう生き物かを知っていて、かつ、人と妖の別れをいくつも見てきて(経験もして)いるので、ソウゴさんとタオルの妖が結局はうまくいかないだろうということは、分かりきっているんだと思います。

それでも夏目を止めないのはきっと、「夏目のやりたいようにさせてみよう」という気持ちがあるからではないかと思います。信頼できる人間ができて、ようやく周りが見え始めた夏目の意志を尊重してあげたい、という気持ちもあるでしょうし、これは妄想になりますが「夏目ならどうにかできるかもしれない」と、小さく灯る光を見るような気持ちもあったのかもしれないです。

何にせよ、見守る先生の中にあるのは、夏目の意志を尊重する気持ちだと思います。

またこれは妄想になりますが、文句を言いながら、そして結末もわかっていながらずっと先生が側にいてくれたのは、辛い結末が訪れた時に夏目がちゃんと立っていられるようにするためかなあと思ったりします。妄想です。

 

 

・ソウゴさん、タオルの妖

あとこれは音劇関係なく、「悪戯な雨」についてなのですが、「ソウゴさん」というカタカナ表記、これはタオルの妖が音でだけ「ソウゴさん」という名前を聞いているからなんでしょうね。あと、タオルの妖も最後まで名前が出ません。すごい技巧です。

50年間名前を知らずにソウゴさんに寄り添っていた妖、名も知らない子どもにタオルを貸して拭いてあげたソウゴさん、これらを踏まえると二人の名前事情もなんだか深い意味がありそうですね。

 

 

 

……というわけで、音劇、本当に良かったです!

雨が降る演出や音ももちろんですが、この物語を緻密に読みこんだことがわかる新しいシーンの追加や解釈に目からウロコでした。

名前も知らない、何者かも知らない何かに寄せる想いや優しさ、そのふれあいの大切さを描くことは、「夏目友人帳」のテーマでもあると思っています。

「悪戯な雨」は、まさにそれを象徴する、もっとも「夏目友人帳」らしいエピソードなのではないかと、音劇を見て改めて感じました。

音劇素晴らしかったです!ありがとうございました!